藤のルーツ 第14回

戦争へ向かう中で

1925年の開校の喜びと同時に初代校長の思いがけない帰天という哀しい試練のあとを引き継いだSr.クサヴェラは、開校直後の学校の教育と運営に全力を尽くしました。

1930年に第一回卒業式が行われ、117名が卒業しました。入学時には167名であったのに、5年間に50名もの生徒の病死や家庭の事情による退学。結核や脳炎などの病死が多く記録されています。また、卒業後の1年課程として家政補習科を開設する認可を得て、17名が入学しました。

1935年には、創立10周年記念式典と祝賀が荘厳かつ盛大に行われました。同窓会からの寄付によって、校庭に「奉安殿」(現在のマリア堂)が設けられて天皇?皇后両陛下の御真影が安置され、さらに、正門(南西角)が木の門柱から石の門柱になりました。

学内は平穏の内に過ぎていきましたが、1937年7月の盧溝橋事件以来、日本は中国との戦争に向かい、建築資材が高騰。計画していた札幌の藤幼稚園の建築コストが上がり心配しました。しかし、思いがけないアメリカの恩人のお陰で幼稚園が完成し、1938年に無事に開園。1938年9月には、ドイツからヒットラーユーゲントの少年たちが交流のため来道し、道庁からの要請により、少し恐れながらも野幌で彼らのための食事作りをしました。彼らの中にはシスターたちに親しみを表す子と、冷淡さを表す子たちがいました。

1939年1月には、文部省の役人と軍人による学校視察があり、神道に基盤を置く政府の精神に則って教育をしているか、非常に厳しく詰問されました。「天皇陛下とキリストとどちらが偉いのか」と。クサヴェラ校長の傍で牧野キクが、恐れることなく勇敢に答弁し、後でその時の軍人が「牧野という女は、何と気の強い女だ」と語ったとのこと。

教会の宣教師社団設立であったこの学校をより安定させるため、独立した社団の設立を1939年に申請しましたが学校のためには許可されず、1940年3月に財団法人設立の申請をしました。それに対して8月に、理事長は日本人でなければならないこと、その他にも追加や変更が求められ、9月に必要な書類を送って、とうとう12月13日に認可されました。財団法人札幌藤高等女学校に設置者変更、設立代表者はクサヴェラ?レーメで、Sr. 長船ヒロが初代の理事長です。

(左)創立10周年記念に新しくされた正門(1935年)右にはキリスト教のシンボル、左には学問のシンボル (右)創立10周年記念に設けられた奉安殿扉は鉄製の三重扉で、上部に菊の御紋 
(左)創立10周年記念に新しくされた正門(1935年)右にはキリスト教のシンボル、左には学問のシンボル (右)創立10周年記念に設けられた奉安殿扉は鉄製の三重扉で、上部に菊の御紋